生の生々しさについて

皆様こんにちはこんばんは。

 

今日ふと、ブログを書いてみようと思い始めました。ウスシオです。

 

あいにく母親から渋々買っていただいたMAC BOOKがブッ潰れている為(恐らく母親が落下させ破壊した)使い慣れていないIPADBLUETOOTHキーボードを使用し、このブログを書いております。

 

なぜか、英字が全て大文字になってしまうのですが、調べるのもめんどくさいのでこのままで御勘弁ください。

 

 

この間、そのMACを修理に出そうと思い、アップルさん公認修理店とやらに行ってきたんですが、これがとにかくとにかくやばくて。何かというとその修理価格。

 

 

何と65000円!!

 

僕は液晶が割れただけだったんですが、PROの最新モデルだっただけにその値段でした。

 

APPLECAREに入っておけば10000円程度の修理価格で済むそうで、、

 

本当に入っておけばよかった!その一言でした。本当にあいつすぐ潰れるので、お持ちの方は細心の注意を払い気をつけてください。。本当に。

 

 

 

さて、記念すべき最初のブログのタイトルと言いますと、

 

 

 

“生の生々しさについて“

 

 

という如何にも重々しいタイトルで、何やこれと思った方も多いのではしょうか。

 

安心してください。肩の力を抜いて読めるよう内容にして参りましたので、、

 

僕のブログは僕が普段生きてて思うことや、考え方などを主に書いていこうと思っています。

 

あいつまたなんかおもろいこと言ってんな的なノリで見ていただけたら嬉しいです。

 

 

 

今回の話も僕が授業中にぼーっとしながら思いついたような内容です。

 

急ですが、人が生に深く考える瞬間、それはいつでしょうか。

 

たった今、ここにひとつの果実があったとして、それが腐っていたらどう感じるでしょうか。

 

さも汚いものかのように扱い捨てると思います。死んだバッタであっても蝉であっても同様だと思います。

 

しかし、腐っていく過程を見るとするとどう思うでしょうか。

 

ほとんどの人は気味悪がって、見ることを拒否するでしょう。

 

 

その生の日常が浮き上がってきた瞬間、、急に生の生々しさが突きつけてくる。。

 

よく生活感というものを人は嫌います。そこにただ何かが生活してたという生々しさにうんざりするのです。

 

 

しかし最近、

通信、インターネット技術の進化によって日常の生々しさに一触れることが少なくなりました。皆、無機質に携帯電話を操り自分の日常ではない何処かに行ってしまうのです。

 

その結果、日常と生が剥離し死に対する考え方が軽くなってるような気がします。

 

どこの誰が死んだとかが文字で出るだけ。

 

その人の日常の生々しさは綺麗に片付けられ、ますます人々は生について考えることもなくなる。

 

どこかの誰かが必死に生きたり、喜んだりそういうことを考えただけで何だか温かくて、自分の日常を大切にできる気がします。

 

 

もっと個人が自分の日常に向き合ってみてほしい。僕はそう思います。

 

 

さて、何だか書いてるうちに何について書いてるのかと、ブレブレでしたが、少しでもこの感覚が伝わってくれてたら嬉しいです。


カネコアヤノ『やさしい生活』

 

この曲は僕の感覚にとってもあってる気がしたので、

もし良ければ!てか、ここまで読んだんならみろ!!!!!

 

 

色々書きましたが今回はこの辺で、、

ストックはいっぱいあります!!笑

 

 

 

では!!!